置時計 置時計の歴史
置時計を日常生活に使われている人は多いと思います。 置時計の歴史について改めて考えてみましょう。
置時計の歴史
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置時計の歴史とはどのようなものであったのでしょうか。人類が「時間」というものを考え始めたのは約5000年前といわれています。紀元前2000年頃にはエジプトでは太陽の位置によって「固定された適当な物の影を見る」ことによる日時計が作られています。しかし日時計は晴天の日中しか使えないために別の方法で「時間」を知る必要が生まれ置時計が考えられたのです。

置時計とは言っても、特定の大きさで作った蝋燭、線香や火縄が燃える距離によって「時間」を認識するという置時計でももっとも原始的な燃焼時計でした。紀元前1400年〜紀元前700年頃に使われていた置時計としては。水や砂が小さな穴から落ちる体積によって「時間」を知る水時計や砂時計がエジプト、イタリア、中国など考案されています。

14世紀に入って機械を使った置時計が開発されています。この時の置時計は定期的に重錘を引き上げ、それが下がる速度を棒テンプと脱進機で調節する置時計であった。
近代置時計の原型と発展
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置時計を目覚ましやインテリアとして使っている人は沢山いるとおもいますが、この近代置時計の原型はガリレオ・ガリレイの発見が大きく寄与しています。置時計とガリレオ・ガリレイとの関係はあまり知られていませんね。実はガリレオ・ガリレイは「振り子の周期が振幅によらず一定であること」を発見して、振り子時計を開発しているのです。この振り子時計を原型として、1654年にひげゼンマイが振り子と同じ一定周期で振動することを発見したロバート・フックがゼンマイ式の置時計を開発しました。

中世ヨーロッパでの置時計は神に祈りを捧げる時を知るために使われていましたが、大航海時代に入り船の現在位置を知るためには、揺れる船の中で正確に時間を知ることのできる置時計が必要になってきました。イギリスの
1736年にジョン・ハリソンがこの難問を解決し揺れる船の中でも正確に時間を刻む置時計を完成させます。置時計の新し革命を起こしたのはフランスの天才時計師アブラアン・ルイ・ブレゲです。アブラアン・ルイ・ブレゲはトゥールビヨン、永久カレンダー、ミニッツリピーターなど、現代の機械式の置時計にも用いられている画期的な発明を数多く行った。

日本での置時計
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置時計の日本での歩みですが、日本で最初の置時計は中国から渡ってきた漏刻(ろうこく)といわれる置時計です。漏刻(ろうこく)とは水時計の一種で近江朝より平安朝末期まで全国の鎮守府に置かれ時間を知らせた。寛政の初めには我が国独自の振り子式天文時計としての置時計である垂揺球儀(すいようきゅうぎ)が製作される。さらに日本独自の置時計としては和時計(わどけい)があります。和時計は日本独自のもので単に時間を刻む置時計ではなく天体時間や万年時計が表示され、形状も美しく優れた置時計が製作されています。さらに日本では合歓(ねむ)の木の若葉を粉して、粉の燃焼の長さによって時刻を刻む香時計(こうどけい)といものも製作されています。

ヨーロッパから置時計が伝えられたのは、
16世紀中期のキリスト教の伝来とともに日本に渡来した最初の機械時計は、天文20(1551)、宣教師フランシスコ・ザビエルによって、周防の国(現在の山口県)の領主であった大内義隆に献上されたものと言われています。その後、ローマ法王訪問使節が豊臣秀吉を訪ね、自鳴鐘を献上するなどして、我が国に機械時計が少しずつ入ってきました。なお、現存する最古の機械時計は、イスパニア(現在のスペイン)から徳川家康に贈られたもので、静岡県の久能山東照宮に保管されています。1600年頃、天草島の志岐ではゼミナリヨと云うキリスト教の付属機関(職業学校)において、宣教師が日本人へ、時計、オルガン、天文機械等の製作法を教えました。これが日本での機械時計製作の始まりかもしれません。



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